長谷園だより 土鍋のある暮らし




伊賀焼の歴史

日本陶器産地のなかで異彩を放つ伊賀焼の成り立ちと特色をお伝えします。

伊賀焼について

伊賀焼の陶土・古琵琶湖層

約400万年前、琵琶湖は今よりももっと小さく、場所は伊賀の位置にありました。その後、琵琶湖は現在の場所に移り、もと琵琶湖であった所が隆起して伊賀になったと云われています。
古琵琶湖が隆起した地層には、堆積した植物や微生物の化石が含まれています。その古琵琶湖層で採掘される粘土を用いて作る陶器は、高温で焼成される制作過程で化石が燃え尽き、細かな穴が無数に空いた『ポーラス(多孔質)』な焼き物になります。

代表的な伊賀焼のひとつ「耳付花入」(引用:東京国立博物館「耳付花入」)

そのように世界的にも稀な特徴をもつ陶土が算出され、また薪に最適な赤松の森林が豊かであった伊賀で、約1200年前(天平年間729〜749)に農民が農業用の種壺や生活雑器を焼いていた事が伊賀焼の始まりとされています。奈良時代には伊勢の皇大神宮に献上したという記録もあります。

伊賀焼の銘品・茶の湯

伊賀焼は、立地的に大和地方に近かったことにより、永く文化の中心にあり、日本美術の源であった奈良朝の歴史的影響を受け発展しました。そして作陶が専門業に分化した室町時代末期に活躍した陶工の太郎太夫・次郎太夫の二人が享禄の頃(1528〜1532)に伊賀丸柱で伊賀焼を再興したといわれています。
伊賀の地には、太郎太夫・次郎太夫の二人が「伊賀焼の陶祖」であるとする伝説が残されています。

代表的な古伊賀のひとつ「破れ袋」(引用:五島美術館「破れ袋」)

その後、天正12年(1584)、伊賀領主に任じられた筒井定次は、古田織部とも親交を温めた茶人であったため、古伊賀と呼ばれる伊賀焼茶陶の真髄を具えた作品を上野城内の窯などで焼かせました。定次時代に作られたものを俗に「筒井伊賀」、定次の後に伊賀国主となった藤堂高虎の時代の作品を「藤堂伊賀」と呼んでいます。今日では筒井伊賀と藤堂伊賀を合わせ「古伊賀」と呼ばれています。
「古伊賀」は茶の湯に用いるための茶壺、水差、茶入、花入などが主な作品で、無釉の素地を高温で何度も焼成することによって松灰と炎で自然に作り出される、青ガラス質のビードロ釉と呼ばれるものが景色をつくり「佗び(わび)」「寂び(さび)」を醸し出します。
それは茶陶の世界において、右にでるものはないと高く評価されました。

伊賀焼の変遷・今に受け継がれる伝統と感性

伊賀焼には約400万年前頃の堆積した古琵琶湖層といわれる地層で採掘される【蛙目(がいろめ)粘土】と【木節(きぶし)粘土】という、どちらも耐火度が高い特徴をもつ「伊賀陶土」が使用されています。耐火度が高い陶土のため、別名「七度焼」といわれるほど、高温で繰り返し何度も焼くことができ、他産地とは大きく異なった陶器に仕上げることができるのです。

今も貴重な陶土を生み出す島ヶ原鉱山

しかし、寛文9年(1669)藤堂三代・高久の時に、伊賀陶土の濫掘を防ぐ「御留山の制」が設けられた際、多くの陶工が信楽に移り、伊賀焼は一時衰退しました。
その後18世紀に入り藤堂家九代目の高嶷(たかさと)が再び作陶を奨励したことにより「再興伊賀」の時代を迎えます。
「再興伊賀」には、瀬戸の陶工より釉薬の技術がもたらされ、施釉による様々な雑器、茶器そして古伊賀写しなどが作られました。それまで茶の湯の御道具であった「古伊賀」からより幅のある陶芸へと広がりを見せ始めたのです。

そして江戸時代後期の天保3年(1832)丸柱の地に「長谷園」が築窯されました。
「長谷園」は様々な食器や雑器とともに、耐熱度の高い伊賀陶土の特質を活かした土鍋・行平・焙烙・土瓶など、庶民の日々の暮らしに役立つ生活必需品を作り始めました。

*これからの伊賀焼のあゆみは長谷園の歴史と今に続きます。